Tuesday, October 11, 2011

日本に亡命中国人と中華民国「第一共和」


来年1月の総統選挙に出馬する蔡英文・民進党主席は8日、遊説先の高雄市で「台湾は中華民国」と発言した。蔡氏が台湾を中華民国と明言したのは初めて。さ らに蔡氏は国民党に対して「政権運営に不満はあるが、台湾の民主化に参与している」と述べた。「台湾イコール中華民国」とした背景には、民進党が政権を奪 還した際の中国との関係改善の配慮があるものとみられる。(団子屋のページ)

 中華民国建国100年祝賀動画: 林覚民編
映画1911

台湾が中華民国の第二共和といえば、「第一共和」とは何でしょう?

明治維新によっていち早く近代化を達成した日本を見習って孫文らが”満族排除”を掲げ武装蜂起を指導した。しかし辛亥革命以降は満族排除の思想は退潮し、革命スローガンも「打倒韃虜」から「五族共和」へと平和的になっていく。

辛亥革命直前には数万人が日本に留学していたが、この留学生たちに革命思想が浸透し、1905年に東京で「中国同盟会」が成立している。辛亥革命の指導 者・孫文を初め、黄興、宋教仁、胡漢民、廖仲愷、朱執信、汪精衛等の革命指導者のほとんどが日本留学の経験者であった。日本の政財界も孫文ら支援してい る。

日本留学経験者


 林覚民
マダム・チャンの日記
http://dianying.at.webry.info/201109/article_6.html


林覚民は13才で科挙を受けさせられたものの、答案に「立身出世のための学問はせず」と書いて試験場を後にし、やむなく父親は当時流行りだった日本に私費留学に出したという。そして、日本では慶応大学の文学部に入学したという。

しかし、当時の日本には孫文、『1911』の主役でもある黄興、秋瑾などがいて、そうした革命家たちが集まる同盟会に早速入会した林覚民は、清朝を倒し、共和制を打ち立てる革命に身を投じる決意をする。
だが、黄興らと共に起こした広州起義に失敗、負傷して捕えられると、広州福建両総督はその若さ(わずか24才)と才能と美貌を惜しみ、殺すのを躊躇したものの、これだけの人物を革命軍に残すのは危険という周囲の助言を入れて、あえて処刑することにしたと言う。

ハンカチにしたためられた妻への手紙は仲間がそっと今の福州市三坊七巷にある林覚民の家の門の中に差し入れたそうだ。


wikipedia

秋瑾(しゅうきん)は、清朝末期の女性革命家。詩人。原名、閨瑾(けいきん)。日本留学時に「閨」を削って「瑾」とした。

来日後、弘文学院の速成師範班に編入。中国留学生会館の経営する日語補習所で日本語を勉強するかたわら、浙江同郷会の週1回の会合にも必ず出席した。後に青山実践女学校に入学。教育・工芸・看護学などを学んだ。深夜まで読書と執筆にふけり、感極まると胸を打って痛哭するという日常を送ったという。麹町神楽坂の武術会にも通い、射撃を練習し、爆薬の製法まで学んでいる。

横浜の洪門天地会(三合会)には来日直後に入会し「白扇」(軍師)になっている。1905年(明治38年)9月には、孫文が率いる革命団体「中国同盟会」に参加。浙江省の責任者となり、それまで団結心が無いといわれていた浙江の同志を同盟会に吸収することに成功した。女性だけの会としては「共愛会」を創設している。

1905年(明治38年)2月に一時帰国したが、春に再来日する。この一時帰国前、秋瑾は浙江派の革命団体「光復会」に入会すべく東京の責任者・陶成章に執拗に頼み、上海の光復会の会長・蔡元培と紹興の徐錫麟への紹介状を入手している。結局、蔡元培は入会を認めなかったが、徐錫麟は入会を認めるに至った。

蒋介石 wikipedia

「石崗中正」日本學校炮兵軍裝照(待考)

蒋介石は、1887年に清国の浙江省奉化で塩商人の蒋肇聡と王采玉の間に生まれた。

成人後は日本東京振武学校へ留学した[4]。なお、本人は日本士官学校卒と称していた為、陸士卒とされることもあるが、実際には振武学校で学んだだけであり、これは経歴詐称である。その後辛亥革命に関わったことで孫文からの信頼を得たが、台湾独立運動家の黄文雄の著作によると、孫文はそれほど積極的に蒋介石を信頼してはいなかったと言う意見もある[5]

日本の高田の砲兵学校で軍事教育を受け、日本に亡命した際には日本政財界による支援で清朝打倒に奔走する他、宋美齢との結婚式を日本で挙げることを希望していたなど、その後敵味方に分かれて戦うことになった日本と、生涯に渡り深い関係を持っていた。 


蒋介石の歴史的な評価については、日中戦争を戦い抜き、台湾に移ってからも強力な指導力で中国共産党と対峙した中華民国の指導者として賞される面と、白色テロで台湾を支配し、自身の息子に権力を世襲した独裁者として非難される面の両面を持っている。

2009年12月23日日本李登輝友の会が主催した日台共栄の夕べに出席した自民党青嵐会出身の森喜朗元総理大臣が、金美齢の面前で「日本が今日あるのは蒋介石のおかげであり、日本人は蒋介石に感謝しなくてはならない」とのスピーチを行った。

蒋介石を日本亡命中に庇護していた犬養毅と頭山満とともに(1929年)


孫文

 「梅屋夫妻と孫文」小坂文乃氏蔵 大正3年(1914)

清仏戦争の頃から政治問題に関心を抱き、1894年1月、ハワイで興中会を組織した。翌1895年(明治28年)、日清戦争の終結後、広州での武装蜂起(広州蜂起)を企てたが、密告で頓挫し、日本に亡命した。明治30年(1897年)、宮崎滔天の紹介によって政治団体玄洋社の頭山満と出会い、頭山を通じて平岡浩太郎から東京での活動費と生活費の援助を受けた。また、住居である早稲田鶴巻町の2千平方メートルの屋敷は犬養毅が斡旋した。

1899年、義和団の乱が発生。翌1900年、孫文は恵州で再度挙兵するが失敗に終わった。のちアメリカを経てイギリスに渡り、一時清国公使館に拘留され、その体験を『倫敦被難記』として発表し、世界的に革命家として有名になる。この直後の1904年、清朝打倒活動の必要上「1870年11月、ハワイのマウイ島生まれ」扱いでアメリカ国籍を取得した[1]。以後、革命資金を集める為、世界中を巡った。

1905年(明治38年)にヨーロッパから帰国をする際にスエズ運河を通った際に、現地の多くのエジプト人が喜びながら「お前は日本人か」と聞かれ、日露戦争での日本の勝利がアラブ人ら有色人種の意識向上になっていくのを目の当たりにしている。孫文の思想の根源に日露戦における日本の勝利にあるといわれる。長い間、満州民族の植民地にされていた漢民族の孫文は、「独立したい」「辮髪もやめたい」と言ってきた。

同1905年(明治38年)年、宮崎滔天らの援助で東京にて興中会、光復会、華興会を糾合して中国同盟会を結成。
孫文は生前、日本人とも交遊関係は幅広く持っていた。犬養木堂(毅)の仲介を経て知り合った宮崎滔天[23] や頭山満・内田良平らとは思想上も交遊し、資金援助を受けてもいた[24]。また、実業家では、安川敬一郎や株式相場師の 鈴木久五郎、梅屋庄吉[25][26]からも資金援助を受けている。

ほかにも日本陸軍の佐々木到一が軍事顧問にもなっている。ほか、南方熊楠とも友人で、ロンドン亡命中に知り合って以降親交を深めた[27]。

また孫の自伝『建国方略』の文書中では、犬養毅・平山周・大石正巳・尾崎行雄・副島種臣・頭山満・平岡浩太郎・秋山定輔・中野徳次郎・鈴木久三郎・安川敬一郎・大塚信太郎・久原房之助・山田良政・宮崎寅蔵・菊池良一・萱野長知・副島義一・寺尾亨の名前を列挙し、深く感謝の意を表している[28]

汪兆銘



光緒10年(1884年)、10人兄弟の末子として広東省三水県(現在の仏山市三水区)に生まれる。光緒30年(明治37年、1904年)9月、清朝の官費生として日本の和仏法律学校法政大学(今の法政大学の前身)に留学。留学中に孫文の革命思想に触れ、光緒31年(1905年)、革命党に入党した。やがて孫文の来日を機に同年8月中国同盟会が結成され、汪兆銘は機関紙『民報』の編集スタッフを務めることになる。この頃から汪は「精衛」という号を用いるようになった。

光緒32年(1906年)6月、法政大学速成科を卒業。官費留学の期限は切れたが、汪はそのまま法政大学の専門部へ進み、革命運動を続けることとした。この頃、ペナン島の有力華僑の出であり、のちに汪の妻となる陳璧君も運動に参加している。

やがて清朝の意を受けた日本政府の取締りにより『民報』は発行停止に追い込まれ、孫文は根拠地をハノイ、ついでシンガポールに移した。孫文の信頼を得ていた汪も、孫文と行動を共にする。孫文がフランスへ去った後、汪は東南アジアにおける中国同盟会の勢力拡充に力を注ぐことになる。



台湾民主国第二共和とは:
日清戦争により日本に割譲されることになった台湾では、割譲に反対する清官僚らにより台湾民主国が建国される。その歴史は「第一共和」及び「第二共和」の2期に及ぶが、第一共和が僅か10日で崩壊したのち、その後台南で第二共和が成立し、100余日に及ぶ抗争が始まる。

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