これは自伝的回想録という形式で書かれた、ある無辜の庶民がどのように理由もなく逮捕され、身に覚えのない罪を着せられ、刑を確定されていくかという記録でもあります。 これを読んでいて感じたのは、台湾でよく耳にする本省人、外省人という単純な区別とは違う構図が実際にはあったことです。 筆者は本省人でありますし、この本の中に登場する多くの犠牲者(と呼ぶのがふさわしいでしょう)も本省人でありましたが、一概に犠牲者が本省人で加害者が外省人という風には言えない事例が数多く描かれていました。 本省人であるという立場を利用して、本省人を売る下級官吏も登場します。 また、その当時には様々な立場があったことを、この本から知ることが出来ます。 日本時代に台湾共産党員だった人達は、この時期には引退するなどしていたのに、それすら引きずり出されました。 ありとあらゆる無関係な人が無理やりに関係をつけられて、施政者によって消されていきました。 この本の中には人間の無力さ、愚かさ、哀しさ、尊さ、気高さがあますところなく描かれていると思います。 本省、外省といった出自に関わらず、「人間」として彼らがどうやって生きたのかを公平な目で筆者は描いています。 なぜ自分が捕らえられたのかすら解らずに連行された筆者は、やがて、それが自分の友人が言った嘘の証言によるものだと知ります。 その友人は延命のためにアメリカに行っていた筆者の名前を挙げたのです。 そのことを彼は恨まずに、人間の性として許します。 彼の名前を挙げた友人は中華民国の来臨に歓喜の涙を流して喜び、木によじ登って蒋介石総統を迎えたほどの人物でした。 そういった血気溢れる純粋な理想に満ち溢れた青年達は、見事に裏切られます。 異民族による統治下に置かれ、その不平等に憤りを抱いていた青年達は同胞である中華民族の政府を心から歓迎したのに、それは見事に裏切られたのです。 「自分は誰であるのか」「自分は何者なのか」 日本人でもなく、中国人でもない自分達は何なのか。 身を切り裂くような自問に対しても答える術を持たず、答えを見つける前に捕らえられ、銃声と共に尊い生命を奪われていった台湾青年達。 そういった主義や思想とは無縁であるにも関わらず、優しい心から、そうした青年達を助けたために何の罪も思想もないのに捕らえられた人達。 どうして自分の息子や夫が捕らえられたのか理解することもできずに、ただ嘆き、悲しむ母や妻達。 そういった歴史にすら残らない無名の人達の姿が、この本の中には描かれています。 面会できないと知りながら、息子が収容されている刑務所に行くと、ちょうど息子達が処刑されるためにトラックに乗せられるところに出くわし、気が狂ったようにトラックの後を追って走る母。 追いつくはずもないのに、懸命に走り、走って、遂に力尽きて倒れた時、母の手には息子のために持ってきたバナナのへただけがしっかりと握られていたのです。 この人達がどうしてこのような悲哀と辛酸を舐めなければならなかったのか。 その答えは「外省人がひどいことをした」だけでは到底出てきません。 外省人でも罪もなく殺され、消えていった人はたくさんいます。 本省人でも、この機会を利用して私腹を肥やした人もいます。 筆者の人間に対するしっかりした視線が、出自や肩書きによって人を容易に区分けすることの愚かさを見事に物語っています。 また、人間の弱さ、はかなさをもきちんと認め、その弱さを愛しくすら思う筆者の優しさが、人々を描く筆致に幅を持たせています。 筆者は身に覚えのない罪を自分に着せた友人にすら、その着せざるをえなかった理由を推測して同情しているのです。 この時代を生きた人達に出会うと、一様に感じるのが「人に対するおおらかな優しさ」と、今、多くの本省人がよく口にする「外省人憎し」とは全く違う、外省人にすら同情し、「彼らも被害者です」と言い切れる懐の深さです。 その懐の深さの源を「台湾のいもっ子」を読むと解るような気がしてきます。 極限状態に置かれた人間にこそ解る痛みを彼らは味わい尽くしているのです。 日本でよく使われる「本省vs外省」という構図を簡単に用いて台湾を見ると誤った視点で台湾を判断しかねません。 この本を読むことで、台湾が戦後に歩んできた道を知り、今の台湾を見ていただけたらと思います。
via amazon.co.jp
蕃薯仔哀歌
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